哲学対話『最高の死をデザインしたいか』 エッセイVol.1

ネット上に今も据えてある謝罪文の記憶で私は目を覚ます。カーテン越しの外は真っ暗で、同じベッドで寝ている犬の寝息が聞こえてくる。時計を見るとまだ3時半。目覚まし時計が鳴るまでにはまだまだ時間がある。「勇気をもって問題提起してくださったご参加者さま、ありがとうございました」。「改めて哲学対話の怖さと素晴らしさを体感することができたように感じています」。目を閉じもう一度眠ろうと努力してみるのだが、謝罪文の文言が私を睡眠に落ちることを許さない。カーテンの隙間から白み始めた空が部屋に充満し、だんだん明るくなってくる天井をぼんやりと見つめていると、目覚まし時計のベルが私の頭痛をガン!!と直撃した。

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2021年3月29日

ツイッターでこの哲学対話の案内を見て、10分位遅れて入った。「最高の死をデザインしたいか」というタイトルにうっすら優生思想の匂いを感じながらも、去年違う哲学カフェで安楽死をテーマにした対話に参加してとても良かったことを思い出し、参加してみたのだった。

 

参加したとたん、某氏が冒頭に発言した、「高齢で寝たきりになりチューブだらけになるならば、モルヒネとか使って安楽死がしたい」という言葉は私の首にナイフを突きつけた。私の抱える線維筋痛症は、安楽死の対象になっている国もある。また、安楽死は優生思想と結びついて、命の選別として今日も稼働している。いつも待合で一緒になる同じ病のBさんのことを思い出した。彼女は最近寝たきりになってしまったのだが私だっていつそうなるか分からない。

 

哲学対話の「自分の経験を話す」というルールに乗っ取って、私が病気であることを言うべきだったのかもしれないが、知らない人ばかりの間で私自身の病気を言い出すのは気が引けた。しかし、このナイフを退けてもらわないまま退出するのも嫌だった。暫く考えこんだ後こう切り出してみることにした。「モルヒネは緩和ケアにも使われています。緩和ケアと安楽死を混同していませんか?」。確認するとやはり彼女はその違いも分からず発言していたようで、何も知識のないままこんなテーマの対話が進むことにぞっとした。その後急いで私は「死をデザインすると、障害や病気の人が生きづらくなるのではないか?」という問いを立てた。安易に優生思想に加担する発言が出ないように予防線を張ったのだ。それと同時に彼女の発言がどういうことを意味するか自らに問いかけて欲しかった。

 

前半は出生前診断、優生思想、安楽死合法化されている国で「すべり坂」が起こっていることなどを私がひたすら話していた。彼女が私の首に立てたナイフをとにかく退けて欲しかったから。その後、「毎日死にたくなってしまう」と発言する方が居て対話の流れが不穏になってきた。ある参加者が直後に「もし僕らが死にたくなってしまうのならば、それはどのような力が働いているのだろうか」という問を立ててくれたおかげで、流れが変わったのを覚えている。

 

後半、「話が難しくなった」と2,3人の人が言っていた。哲学対話は知識語りをしてはならないことになっているが私はひたすら知識を話しておりきっとそれがまずかったのだろう。どれだけ頑張っても冒頭に必死に私が立てた問は拾われることが無く、疲労感がどっと押し寄せ終了30分前に退出した。哲学対話中、知識語りをする裏でずっと私はこう叫んでいた。「私は病気当事者です。安楽死は優生思想と一緒になって稼働しています。あなたの容易な安楽死発言で私は脅威にさらされました。」退出後、ぐったりしながらお風呂に入った。首にうっすら冷たいナイフの感覚が残ってた。

 

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「死をデザインすると障害や病気の人が生きづらくなるのではないか」というあの問は私にとっての必死のくい打ちだった。安易な安楽死発言がそのまま流れに流されて、更に他の人にも伝播し、哲学対話の外にこぼれ出て、日常にどっとあふれ出さないように。哲学対話中誰からも応答はなくて、未だこの問は宙に浮いたままでいる。身体に染みついた優生思想は、染みついたことも気づかれないまま、今日も人々を命の選別に駆り立てる。流れに逆らって「問を立てる」「それに応答する」という行為は、今にもかき消されそうになっている人々の命に我々がどう応答できるか試される行為なのではないだろうか。

 

 

 

 

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