某メンタリストの炎上から

自室で勉強していると、伯母の泣き叫ぶ声がして思わず体に緊張が走る。続いて祖母のヒステリックな声と、伯母を叩く音。うるさくて勉強どころではなくなり、そっとリビングの扉を開けると、ガラスが割れんばかりの泣き声が耳の鼓膜をびりびりさせた。伯母がかんしゃくを起こすといつもこう。彼女は重度心身障碍者で、定期的にかんしゃくを起こしていた。体を自由に動かすことのできない伯母のお風呂、トイレ、ごはん、全ての介護を担っていた祖母はいつも追い詰められ不機嫌そうだった。今でいうところの介護ノイローゼという状態なのだろう。伯母がかんしゃくを起こすと誰がどう宥めようが手に負えなくなっていた。どんどんエスカレートする泣き声に、祖母も自分のコントロールを失って、つい手が出てしまう。子供だった私は、伯母の泣き声と、祖母が伯母を叩く音を体中に浴びながら部屋の片隅でただただ小さくなって体をこわばらせることしかできなかった。

 

16の時、私は高専の土木工学科に進学した。土木工学は親の勧めであり、あまり気乗りしないものであったのだが、先生たちが入学直後から繰り返す言葉に鼓舞されて、急に勉強に打ち込むようになった。「あなた方は、この国を担う立派なエンジニアになるのです!」、その言葉は無力で何もできずにいた子供の私に急に価値を与えてくれた。こんな私でも立派に、役に立つ人間になれるのだ、と。おかげで高専の頃の成績は常に上位で皆から一目置かれていた。

 

その頃だっただろうか、急に伯母は生きている価値があるのだろうか、と考え出した。それと同時に、とてもやばいことを考えているのではないかと思って、大急ぎでカウンセリングというものに行ってみた。はじめてのカウンセリングで、斜め向かいのソファに座ったカウンセラーに「伯母って生きている価値、あるんでしょうか」と問うてみた。彼女はとても困った顔をして「それは・・・あると思うよ?」と答えただけだった。私は彼女の表情を見て、二度とこの話は人にするまいと決意した。

 

今考えると、私はあの時、不安の塊だったのだろう。急に自分が役に立つ人間だと錯覚し始め、そうでない伯母を見下した。人間の命に価値を付けることによって自分が優位に立ち不安を打ち消したかったのだ。

 

マーティンルーサーキングジュニアの師であったモアハウス大学のジョージケルシーは人種差別を一つの宗教であると批判する。

「信仰としての人種差別は偶像崇拝の一形態である。というのは、人種差別は人間的な要素を究極的なもののレベルにまで引き上げるからである。人種差別の神は人種であり、それが価値の究極的な中心なのである。・・・・人種差別者にとって人種とは決断や行動の最終的な典拠であり、人種という基盤の上に私生活、公共の制度や政策、そして宗教制度すらも形成されるのである。・・・」

 

多くの人が昔から行っている、人の命に価値を付け序列をつけたがる行為も宗教と同じではないだろうか。私たちはただ生まれて死ぬだけで、「価値」というのは社会の作った概念にすぎない。しかし、心の不安を解消するために、人の命を価値という定規に照らし合わせ、何とかして優位に立とうと試みる。そんなもの、社会の外側に放り出されてしまえば意味がないことなのに。今も多くの人が入信していることも気づかずこの宗教を信仰している。

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